ひじりのダラダラ日記

ダラダラした人のダラダラした日常をお送りするブログ

『「テレビは見ない」というけれど』を読んでモヤっとしたところ

『「テレビは見ない」というけれど』という本を読み、個人的に違和感を持った部分がいくつかあったので、ピックアップしていきたい。

西森路代氏のAマッソ評

まず、西森路代氏のAマッソ評についてである。西森氏はAマッソについて、「人を傷つけない笑い」でブレイクしたぺこぱとは対比的に、お笑いには「毒」や「暴力性」が必要だと考えているように思える女性芸人と評している。また、別の章ではAマッソの加納が男女に求められる「らしさ」の違いによって違った視線を向けられていることを語っていたことや、男女で感じる実感の違いをネタにしていたことを評価している。
ただ、どちらもAマッソが過去に大坂なおみ選手に対する差別的なネタで*1批判を浴びていたことには触れていない。このネタ自体が悪い意味で「毒」や「暴力性」を持ったネタであることは明白であるし、この事実を無視して評価してしまうのはマズいのではないだろうか。
さらに、このネタ自体が黒人差別的なだけでなく、女性蔑視も含まれていると(少なくとも私は)感じたので、なおさらジェンダー面でAマッソを評価するのは危険ではないだろうか。
また、同時期に差別ネタで批判を浴びた金属バット*2については「かつて彼らは差別的なネタを披露して非難を浴びたことがあるのだが、」と踏まえたうえでネタを評価しているので、なおさらAマッソが過去に差別的なネタを披露したことに触れていないことに違和感を持った。

岩根彰子氏の女の友情>恋愛は本当にそうなのか

(あくまでもドラマ自体は未視聴なので字面だけ見て感じたことになってしまうが)、岩根氏は『ちょっとマイウェイ*3の最終回で、研ナオコ演じる川村カツ子が昔、自分に惚れていたという男のもとに行ったにもかかわらず、「やっぱり、いまはなつみのほうが好きだから」と桃井かおり演じる浅井なつみのところに戻ってきたのを見て「恋愛>女の友情」というイメージが軽やかに覆されたと評している。
しかし、この場面を「女の「友情」」と決めつけていいものだろうか。カツ子がなつみに対して恋愛感情を持っていた可能性だって否定できない。女同士だからと言って「友情」だと断定してしまうのはいかがなものだろうか。
また、『抱きしめたい! I WANNA HOLD YOUR HAND』*4ではもし現在で時代の都合で主人公である浅野温子演じる池内麻子と浅野ゆう子演じる早川夏子の関係が「性愛」の方向には進まなかったが、現在リメイクされたら二人の間にも性的な引かれ合いがあるという筋立てのほうがリアルに感じられるかもしれないのではと評している。
では、『ちょっとマイウェイ』の部分で時代の都合で直接描写せずとも、カツ子がなつみに恋愛感情を持っていたと示唆しているのではという考察もありえたのではないだろうか。「女の友情>恋愛」ではなく、「女同士の恋愛>男女の恋愛」という見方だってよかったのではないだろうか。

「誰にでもできる仕事」とは

もう一つ岩根氏の部分について、『OUT』*5を紹介しているのだが、その中に「誰にでもできる弁当工場のパートと比べ、ほかの誰にもできない死体処理の仕事には、倫理的な問題はさておき、やりがいがある。」という部分がある。
もちろん、その後の文章も含めて死体処理という特殊な仕事へのやりがいや、プロフェッショナルになっていく過程、特殊な仕事を通じての連帯について評価したいというのはわかる。しかし、だからといって弁当工場のパートを「誰にでもできる」と下げる必要はあったのだろうか。

最後に

批判中心にはなってしまったが、全体的には「だからテレビは衰退したんだ」という説教臭さもなく、かといってただ盲目的にテレビを絶賛するようなこともなく、ちょうどいい塩梅でテレビが発信するジェンダー表象を分析しているように感じた。
個人的に良かったのは、武田砂鉄氏と鈴木みのり氏が書いた部分である。特に、鈴木みのり氏が書いた部分に関しては、これ目当てにこの本を買ったとしても損はないだろう。