ひじりのダラダラ日記

ダラダラした人のダラダラした日常をお送りするブログ

【ネタバレ有】『片袖の魚』鑑賞&上映後のイシヅカユウ氏と東海林毅監督によるトークショーに参加して

redfish.jp

『片袖の魚』という映画を観に行った。
まずあらすじを説明すると、

トランスジェンダー女性の新谷ひかり
(イシヅカユウ)は、ときに周囲の人々との
あいだに言いようのない壁を感じながらも、
友人で同じくトランス女性の千秋(広畑りか)を
はじめ上司である中山(原日出子)や
同僚の辻(猪狩ともか)ら理解者に恵まれ、
会社員として働きながら東京で
一人暮らしをしている。
ある日、出張で故郷の街へと出向くことが決まる。
ふとよぎる過去の記憶。
ひかりは、高校時代に同級生だった
久田敬(黒住尚生)に、いまの自分の姿を
見てほしいと考え、
勇気をふり絞って連絡をするのだが――*1

といったあらすじである。

感想

映画の感想はというと、まず、ひかりが所々で息苦しさを感じる場面について丁寧に描かれている印象だった。
例えば、「誰でもトイレ」を使うように促される場面や、周りから変な目で見られるシーン、初対面の相手に性別を聞かれるシーン、学生時代のサッカー部仲間たちとの飲み会のシーン、その飲み会の中でも想いを寄せていた相手から父親になるという報告を受けたなどがあげられる。相手は決して悪意から言っているわけではない。しかし、こうした場面ではっきりとひかりの心は傷ついている。傷つけられて動揺している中でも、表面上は取り繕おうとしているひかりの姿が印象的であった。
しかし、ひかりの人生が悲惨なものかというとそうでもない。職場自体はあらすじに書いてある通り、理解のある上司や同僚に恵まれているし、上述の件を愚痴れる友達もちゃんと存在している。ラストも失恋こそしたものの、過去を断ち切ってこれからを生きようとするひかりの顔にはどこか希望が感じられた。
そして何より、ひかりが学生時代の友人との連絡を取る際に、うっかり女声で話しそうになったのを男声に切り替えたシーンが忘れられない。何よりもこのシーンは、ひかり演じるイシヅカユウ氏もトランスジェンダー女性であるからこそ、自然にできた演技であろう。

トークショー

そして7/17(土)の上映後に行われた、主演を務めたイシヅカユウ氏と監督である東海林毅氏のよるトークショーが行われた。
トークショーの内容は、イシヅカ氏がオーディションを受けようと思ったきっかけ及びオーディションに対する不安、また東海林監督側もオーディションで人が集まるかという不安、出演している広畑りか氏について、イシヅカ氏のオーディションでの様子、イシヅカ氏に決まった経緯などであった。
中でも面白かったのは、イシヅカ氏が監督のことをよく知らず検索をかけてみたところ、東海林氏が監督を務めていた作品で当時上映していた『はぐれアイドル地獄変』という映画が候補に出てきて、マイクロビキニを着せられる可能性や、トランスジェンダーの描き方について不安を感じていたこと、当事者を募集する際に年齢層を広めにとり、演技経験も不問としていたため、役者によって設定を変えようと考える一方で、演技経験のない人だとできる幅が狭くなるのではという懸念があったこと、広畑氏が話好きであるため東海林氏と広畑氏ともう一人で3時間くらい話していたが、場所が銀座(新橋)であったため、周りから見たら悪いキャッチの人に姉ちゃんが捕まっている図にしか見えなかったこと、イシヅカ氏のオーディションの様子がビジネスライクであったこと(イシヅカ氏曰く、モデルのオーディションはいつもこんな感じらしい)、一次審査で台本を見るか聞かれた際、候補者の中でイシヅカ氏のみが「いいです」と答え、見なかったこと(イシヅカ氏曰く、「見ていいのかわからなかった」とのこと、それに対し東海林氏は、「トランスジェンダーの描かれ方もあるから見たほうがいい」と答えてた)、そのため初めて台本を見たとき、主人公がアクアリウムの会社で働いてる設定で、イシヅカ氏本人も魚好きであることから、ある意味サプライズになったこと、イシヅカ氏がどうしても言いたくないセリフがあったものの、役者がどこまで口出しすべきかわからず伝えるべきか迷っていたが、クランクイン直前に言ったこと(東海林氏曰く、「もっと早く言ってほしかった」とのこと)などが挙げられる。

最後に

ひかりを演じるイシヅカユウ氏も、イシヅカ氏を取り巻く共演者たちもすごく魅力的な映画であったため、色んなひとに観てもらうため、ぜひ全国の映画館でやってほしい(現在は、新宿にあるK's cinemaでしか上映していない)。
そして、物語には描かれていないひかりの人生が、幸せであってほしいと強く願った。

『「テレビは見ない」というけれど』を読んでモヤっとしたところ

『「テレビは見ない」というけれど』という本を読み、個人的に違和感を持った部分がいくつかあったので、ピックアップしていきたい。

西森路代氏のAマッソ評

まず、西森路代氏のAマッソ評についてである。西森氏はAマッソについて、「人を傷つけない笑い」でブレイクしたぺこぱとは対比的に、お笑いには「毒」や「暴力性」が必要だと考えているように思える女性芸人と評している。また、別の章ではAマッソの加納が男女に求められる「らしさ」の違いによって違った視線を向けられていることを語っていたことや、男女で感じる実感の違いをネタにしていたことを評価している。
ただ、どちらもAマッソが過去に大坂なおみ選手に対する差別的なネタで*1批判を浴びていたことには触れていない。このネタ自体が悪い意味で「毒」や「暴力性」を持ったネタであることは明白であるし、この事実を無視して評価してしまうのはマズいのではないだろうか。
さらに、このネタ自体が黒人差別的なだけでなく、女性蔑視も含まれていると(少なくとも私は)感じたので、なおさらジェンダー面でAマッソを評価するのは危険ではないだろうか。
また、同時期に差別ネタで批判を浴びた金属バット*2については「かつて彼らは差別的なネタを披露して非難を浴びたことがあるのだが、」と踏まえたうえでネタを評価しているので、なおさらAマッソが過去に差別的なネタを披露したことに触れていないことに違和感を持った。

岩根彰子氏の女の友情>恋愛は本当にそうなのか

(あくまでもドラマ自体は未視聴なので字面だけ見て感じたことになってしまうが)、岩根氏は『ちょっとマイウェイ*3の最終回で、研ナオコ演じる川村カツ子が昔、自分に惚れていたという男のもとに行ったにもかかわらず、「やっぱり、いまはなつみのほうが好きだから」と桃井かおり演じる浅井なつみのところに戻ってきたのを見て「恋愛>女の友情」というイメージが軽やかに覆されたと評している。
しかし、この場面を「女の「友情」」と決めつけていいものだろうか。カツ子がなつみに対して恋愛感情を持っていた可能性だって否定できない。女同士だからと言って「友情」だと断定してしまうのはいかがなものだろうか。
また、『抱きしめたい! I WANNA HOLD YOUR HAND』*4ではもし現在で時代の都合で主人公である浅野温子演じる池内麻子と浅野ゆう子演じる早川夏子の関係が「性愛」の方向には進まなかったが、現在リメイクされたら二人の間にも性的な引かれ合いがあるという筋立てのほうがリアルに感じられるかもしれないのではと評している。
では、『ちょっとマイウェイ』の部分で時代の都合で直接描写せずとも、カツ子がなつみに恋愛感情を持っていたと示唆しているのではという考察もありえたのではないだろうか。「女の友情>恋愛」ではなく、「女同士の恋愛>男女の恋愛」という見方だってよかったのではないだろうか。

「誰にでもできる仕事」とは

もう一つ岩根氏の部分について、『OUT』*5を紹介しているのだが、その中に「誰にでもできる弁当工場のパートと比べ、ほかの誰にもできない死体処理の仕事には、倫理的な問題はさておき、やりがいがある。」という部分がある。
もちろん、その後の文章も含めて死体処理という特殊な仕事へのやりがいや、プロフェッショナルになっていく過程、特殊な仕事を通じての連帯について評価したいというのはわかる。しかし、だからといって弁当工場のパートを「誰にでもできる」と下げる必要はあったのだろうか。

最後に

批判中心にはなってしまったが、全体的には「だからテレビは衰退したんだ」という説教臭さもなく、かといってただ盲目的にテレビを絶賛するようなこともなく、ちょうどいい塩梅でテレビが発信するジェンダー表象を分析しているように感じた。
個人的に良かったのは、武田砂鉄氏と鈴木みのり氏が書いた部分である。特に、鈴木みのり氏が書いた部分に関しては、これ目当てにこの本を買ったとしても損はないだろう。

2020年読んで良かった本

久しぶりの投稿
晦日ということで、今年読んでよかった本をいくつか紹介したい

①ひとりひとりの「性」を大切にする社会へ
著者である遠藤まめた氏から見た、日本や海外のLGBTQ+を取り巻く現状を書き記した一冊。
ページ数も少なく、読みやすいけれどもLGBTQ+の現状について丁寧に書かれているので、LGBTQ+について興味はあるけれども、ハードルが高く手を出しづらいといった人にはぜひオススメしたい一冊である。

ひとりひとりの「性」を大切にする社会へ

ひとりひとりの「性」を大切にする社会へ

LGBTとハラスメント
会社などにおいてLGBTQ+の当事者がいないものとして扱われたり、LGBTQ+に対する良い偏見と悪い偏見の両方についてまとめた本である。
いないものとして扱うことや、偏見に対して「悪気はない」で済まされることは多いが、その前にまずはこういった本を読めと言いたくなる。

LGBTとハラスメント (集英社新書)

LGBTとハラスメント (集英社新書)

③わかりやすさの罪
わかりやすさばかり求めて「わかりにくい」物を拒絶する現代社会に疑問を呈した一冊。
実際、「わかりやすい」情報は魅力的で大衆ウケがいいけれども、そよ一方で「わかりやすく」するために正しさが犠牲にされてしまったり、雑にくくられてしまうことも多いと感じている今日この頃。
この本を読んで、日本は「わからない」ことを「わからない」まま処理して受け入れることが必要なのではないかと感じた。

わかりやすさの罪

わかりやすさの罪

④99%のためのフェミニズム宣言
資本主義や新自由主義に迎合したまま、女性の中に存在する肌の色や国籍、セクシュアリティの違いを無視して女性差別「のみ」に反対してしまったフェミニズム運動の失敗を批判した一冊。
フェミニズムの失敗として書かれているものの、実際これはLGBTQ+やBLMなど全てのマイノリティの人権運動について言えることであり、例えばLGBTフレンドリーを掲げている一方で、宮下公園再開発で野宿者排除を行っている渋谷区のようなやり方を許容しているようでは、真の「LGBTフレンドリー」なんてのはあり得ない。
マイノリティ差別をなくすにはマイノリティが強者の仲間に入れることではなく、そもそも強者と弱者を線引きするような差別構造を生み出している資本主義や新自由主義を解体する必要があることがよくわかる一冊。

⑤医療の外れで
現役の看護師である木村映里氏が医療現場でのマイノリティの扱われ方について実体験に基づいて記した一冊。
社会のマイノリティに対する偏見の目が医療の現場でもそのまま反映されてしまっているという印象だった。
差別や偏見については無くさないといけないのだが、このような命に直接関わる場所で、偏見を垂れ流されると当事者の命にも関わってきてしまう。この本では実際に病院嫌いになってしまった当事者についても書かれている。
一方で、医療現場のひっ迫した状況についても触れられており、著者である木村氏が板挟みになっていることが痛いほど伝わってくる一冊である。
ただ、一つ気になったのはマイノリティの中で外国人の存在が書かれていない点だ。
著者が当事者と接したことがないから書いていないだけだと思いつつも、著書の中に「「差別ではなく区別」というのは差別を正当化するために使われる言葉」と書かれているところがあり、その中に具体例もいくつかあるのだが、具体例にも外国人が入っていなかったのは少し気になった。

レイシズムとは何か
差別はなぜ起きるのか、そしてなぜ日本には差別が蔓延しているのに、「日本には差別がない」と思い込む人が一定数いるのかをまとめた一冊。
明らかな差別的発言に対しても報道では「賛否両論」や「批判殺到」などと差別だとハッキリ批判できず、また差別発言自体が意見の一つとしてまとめられてしまうくらい、現在日本は反差別のブレーキが弱い。
この本はそんなブレーキの弱さについてもしっかりと指摘している。

レイシズムとは何か (ちくま新書)

レイシズムとは何か (ちくま新書)

【ネタバレ有】『ぼくが性別「ゼロ」に戻るとき』の鑑賞&リモートトークに行った

『ぼくが性別「ゼロ」に戻るとき』という映画及び常井美幸監督と主人公(?)の小林空雅/このみさんの母である小林美由起さんによるリモートトークショーに行った。

ざっとこの映画のあらすじを紹介すると、元々は「女性」として産まれたものの性別違和を感じ、「雅空」と名前を変えホルモン治療や性別適合手術を行い戸籍上の性別も「男性」に変更したものの、途中で自分が「男性」でもないことに気づき現在は再度「このみ」と名前を変えて詩を書いたりアクセサリーの制作をしながら暮らしている…といった話である。

鑑賞してまず感じたことは、社会では思った以上に性別で区分けされているということだ。特に学校という場においてはそれが顕著にでている。ランドセルの色や制服など、何から何まで性別で分けられてしまっていることが多い。

その中で印象に残ったのが、入学祝いに赤いランドセルを買ってもらったときに最初は喜んだものの、後に性別で色が分けられてると知って違和感を抱いたという描写があった。ランドセルの色というのは(恐らく)性別をわける最初の壁であるといえよう。一般的に男子は黒、女子は赤とされている(それ以外の色を着けいてる子どももいるが極少数であろう)。そもそもこのように性別で分ける必要があるのかと感じた。これでは本来好きだった色が一瞬にして恨めしい色に変わってしまう子どもが増えるだけではないだろうか。

この後も空雅/このみさんを襲う性別の壁は続く。中学のときの制服問題である。この制服問題は性別違和を持つ学生の課題としてよく取り上げられており、最近でもトランスジェンダーの男子高校生による制服の選択制導入を求める署名運動が話題になっている。*1また、このときからメンタルクリニックに通いはじめ、名前を「空雅」に変更し、男性ホルモン治療を行うといった、男性に「戻る」準備を進めている。最終的には保健の先生の協力もあり、男性用の制服を着用しての登校が認められるようになった。また、個人的には男性用制服の着用許可を求めたあとに、母親と一緒に女性用制服をズタズタに切り裂いたと話していたシーンが、一種の決別の表現ようにも思えて印象に残った。

その後は「男子生徒」として定時制高校に進学し、卒業後は夢である声優を目指しながらフリーターとなっている。この時代は周囲の人間も比較的偏見の少ない人間が多かったのか性別の壁を感じる場面は少ないように感じた。また、このときに性別適合手術を行い戸籍も男性に変更している。

その後は男性として声優を目指しながら生きていくのかと思いきや…
実は自身の性別が男性でもなかったことに気づき、名前も「このみ」に再度変えて現在は詩の販売とアクセサリーの制作をしながら生活をしている。声優を諦めた理由の一つに、声優事務所のホームページの中の一覧が男性と女性にはっきり分けられていたのが印象に残った。性別違和が無い状態だと特に気にもとめない部分でも当事者にとっては大きな壁になり得ることもあるということを改めて実感した。また、インタビューで男に「戻ろう」としていたときは「今の自分は好きではないが許せる状態になった」と答えたのにたいして、男でも女でもない「このみ」として生活している現在はハッキリと「今の自分は好きだ」と答えたのが印象深い。かつては「女ではない」から「男である」と思っていたものが、「男でもない」ということに気づいて、「性別」という枠組みから解放されたように私は思えた。

また、この映画には空雅/このみさん以外にも実際に空雅/このみさんが出会った八代みゆきさん、中島潤さん、それ以外にも4人の性別違和を持った当事者が何人か登場する。
八代みゆきさんは、78歳のときに性別適合手術を受け戸籍上の性別も男性から女性に変更している。戦前は「性同一性障害」がないものとして扱われていたため、当然男として育てられ戦中には兵隊にもとられた。戦後はチェロの演奏者として活動していた。人生の最後は女性として終えたいという思いから78歳のときにタイで性別適合手術を受け、戸籍も女性に変更している。現在は元妻の安子さん(離婚したのち養子縁組で再び家族になっている)と二人で暮らしている。
中島潤さんは女性として生まれたものの、自身は「女性ではない」と感じつつ、かといって「男性ともいえない」と自身の性別を表現していた。空雅/このみさんと中島さんが話しているシーンで中島さんの(うろ覚えではあるが)「枠組みを決めてしまうからそこから外れてしまう人がでてくる」「マイノリティと呼ばれてる人たちにとって生きやすい社会はマジョリティの人にとっても生きやすい」という発言には本当にそうだと感じた。本来人間そのものが曖昧な部分が多い存在なのに、そこにむりやり枠組みを決めてしまうほうがおかしいし、マイノリティにとって生きやすい社会がマジョリティにとって生きづらい社会であるはずがない(強いて言うなら差別をしたがる人間にとっては生きづらいのかもしれないが)。

続いて9/12(土)の上映後に行われたリモートトークショーについての話をしたい。(うろ覚えではあるが)

リモートトークショーでは、zoomで常井美幸監督と(事前告知は無かったが)母親である小林美由起さん、そして配給スタッフの方が参加。その中で映画に至った経緯や思いを話していた。

元々性同一性障害を特集するドキュメンタリーとして空雅さんに取材していた。その様子はNHKワールドでも放映されていたらしい。ただ、海外だったので美由起さんには反応がわからなかったとのこと。ただ、常井監督自身むしろ日本の人に知ってもらうべきだと感じ、この様子をおはよう日本でも放送することになったとのこと。

また、映画には空雅さんの手術について聞くシーンがあり、空雅さんが少し不機嫌な場面がある。正直私はこのシーンを見たときに「なぜこんなにセンシティブなことをあれこれ聞くのだろうか。空雅さんもイラついているのでは。」と感じた。そのシーンについては常井監督自身、空雅さんのことをもっとわかりたいという思いから「あえて」不機嫌なときに突っ込んだ質問をぶつけてみたとのこと。美由起さん曰く「手術しないといけない自分の身体にイラついていた」とのこと。

次に、映画を観て母親である美由起さんが理解者であるといった感想が多かったものの、美由起さん自身は「理解できないから寄り添う」といったスタンスであった模様。個人的にこの「理解できないから寄り添う」という姿勢を見習いたいと強く感じた。

最後に、このみさんから実は「男でもない」ということを聞かされたときの反応について、常井監督は最初はビックリしたそう。というのも、女性から男性になるというテーマで取材していたからというのもあるらしい。ただ、その中で自分自身の新たな発見と成長にも繋がったと語っていた。
対して美由起さんは特に驚きを見せず、「自分の子どもは何も変わっていない」と語っていた。
また、美由起さんが語っていた「男らしくとか女らしくではなく自分らしく生きてほしいけど、中々社会の目がそうしてくれない」というのは本当にそう感じた。自分らしくありたいと思いつつ、社会の目を気にして中々自分らしさを出せない人はLGBT関わらず多いのではないのだろうか。もっとみんなが自分らしく生きられる社会になるべきだと強く思った。

映画全体を通してそもそも性別をハッキリさせておく必要があるのか、わからないのであればわからないままでいいのではないのか。一人ひとりが「わからない」を尊重していく姿勢が大切なのではないのかと強く感じた。

就活の悪口をひたすら言うだけ

私は就活が嫌いである。学生時代も本当にやりたくなかったし、今ももう二度とやりたくないと思っている。

理由を端的に述べると、学生にとってデメリットが多くメリットが少ないのに半強制的にやらされることである。以下、何がデメリットだと感じたのかひたすら書き連ねていきたいとおもう。

まず第一に、なぜ学生のうちに学業とはかけ離れ「就活」に半強制的に取り組まなければいけないのかと思う。学生のうちは「学生」に専念させてほしいと思うし、卒業してから1〜2年辺り就活に専念できる期間があってもいいはずだ。そのほうが「学生」から急に「社会人」に移行するよりも、よっぽどスムーズに移行できるはずだ(少なくとも私は)。

次に、消費するものが多すぎるという点だ。交通費、時間、精神…etc。なぜ就活のためにここまでコストをかけなければいけないのかとつくづく思う。しかも就活でよく聞いたアドバイスの中に、「やりたいことが見つかるほうがまれだから、やりたくないものを消して残ったものを選べ」というものがある。つまり、このアドバイスに基づくと殆どの学生は「自らが望んで選んだもの」ではなく「消去法で仕方なく選んだもの」に対してこのコストを消費しているということになる。おかしな話ではないだろうか。

最後に、自分をむりやり会社や社会の望むような人間に装飾しなければならないという点である。「個性を出してください」とか言われても実際はマナーに沿った髪型や服装、振る舞いを強要され、面接においても明るくハキハキと「華やかな」過去を話すことが是とされている。しかし、本来人間とは見た目も性格も生い立ちも何もかも一人ひとりが違うはずである。それなのに「理想の就活生」像なるものを作り出し、そのように振る舞うことを強要されるのはおかしいのではないか。

以上から私は就活が大嫌いだし、今でもその時間が無駄でしかなかったと思っている。「就活」に捕らわれていなければもっと広い視野で大学生のうちにやりたいことを見つけられたのではないのかと今でも思う。